遊ぶ子供>>書籍と雑誌>>間章〜Aquirax Aida〜『この旅には終りはない』
20050428

間章〜Aquirax Aida〜『この旅には終りはない』

入手!

 故間章先生のジャズ・エッセイです。たまたまオークションに出品されているのを見つけて、落札しました。 定価1,800円が中古で1,200円です。中古のくせに読んだ形跡が全くないので得した気分(^^)v もう出版されてないですからねえ。

おおざっぱな内容

 中身はスティーブ・レイシーとの対話、ミルフォード・グレイヴスに関する小論、そしてデレク・ ベイリーに関する小論と対話となっています。まだスティーブ・レイシーの対話を読み終わったばかりですが、 レイシーの部分だけで半分近く割いています。

読み途中の感想

 はっきり言って難しいです。表現が難しく、彼が戦いを挑んでいるもの、切り開こうとしている地平がわかりにくいというのも事実です。 その上での(きちんと理解していない上での)僕自身の感想は……うーん、正直に言っていいですかね?……正直に言えば、 読んでいて非常にいらいらしました。と言うのも間先生やレイシーの考える即興の高みと、僕の考える即興の高みがまるで真逆だからです。

自由即興とは

 僕の考える即興の高み(あるいは極み)は自由即興にあると思います。自由――それも生半可な自由ではなく、本当の意味での自由です。 通常、自由即興とは、メロディ(スケールや曲のトータリティ)、リズム、 ハーモニー(コードやその他の音の干渉作用)などの楽曲を作る上で規範(ルール)となるべき拠りどころを持たない即興演奏のことを言います。 しかし僕の考える自由即興は、それではまだ足りません。今言ったことを目指そうとすると、 それらのルールから外れること自体が新たなルールとして作用するからです。自由即興は徹頭徹尾自由であれ、と僕は考えています。 さらにはその「徹頭徹尾自由であれ」ということもまた、ルールとして作用してしまいます。ではどうしたらよいのか。

 答えは、決して意図せず、決して意思を持たず、決して気づかず演奏する、 これに尽きると思います。自由を意図することはもはや自由ではなく、自由になる意思を持つことも自由ではない。 また自分が自由であることを意識しては(気づいては)いけない、そう考えます。これはやろうと思って出来るものではありません。 やろうと思った途端に、もう自由ではなくなっています。自由即興は喩えて言うならば、遊ぶ子供だと僕は思います。 遊ぶ子供は「意図せず、意思を持たず、気づかず」という、僕の持つ自由即興のイメージにとても馴染みます。 言葉を変えてもう一度言いますが、 自由になろうと努力すればするほど、 遊ぶ子供になろうと努力すればするほど目指すものとは正反対のものになってしまう、僕はそう考えます。

イラついて

 間先生やレイシーはそもそも、自由即興が即興の高みだとは考えていないようです。自由即興は、 あくまでも即興の高みへの始まりであり、途上であると考えているようです。それゆえ即興に対して、醒める、 客観的に見る、努力する、意識する、といった言葉が頻繁に出てきます。それを読むたびに「違う! そうじゃない!」 とムカムカします。彼らが自分と真逆のことを言っているからって、 そんなに腹を立てなくてもいいじゃないかと思われるかもしれません。 たしかにそうです。しかし自分でもよく分からないけれど、 無性に腹が立ちました。

私は間を何度でも地獄へ突き落とす

 とまあ、ここまで批判してきましたが、素晴らしいと思う点もあります。間先生の思想は大胆で明晰で非常に勇気があり―― たとえばレイシーとの対話中、間先生はしつこいくらいに、アンソニー・ブラクストンを痛烈に批判しています。この辺りはかなり笑えます。―― 、それだけで十分な収穫があった気がします。ただ考えが重すぎるかなあ。まるでコールタールに全身ドップリ浸かっているかのよう。重い、 それゆえ弱々しい!……って結局、批判になっちゃったよ!しかも彼の生き方の根幹に関わる部分まで批判しているような気が。 こんなに批判したら間章ファンに殺されそうで不安です。間先生への批判って全く見ないし……。

(まだ読み途中なので、読み終えたら加筆{減筆?}・修正するかもしれません)

追記

 僕の言っている本当の意味での自由即興っていうのは、実は演奏者自身にしか分からないんです(さらに追記: 演奏している時点では、演奏者自身も分からないと思われます)よねえ……。傍から見て、 演奏者が自由に対する(自由へ向かう)意思や、意識から解放されているかどうかなんて分からないですからね。だから色々と述べましたが、 演奏者がこういったことを論ずるならともかく、聴衆が論ずると言うことは非常に馬鹿げているような気もします。

 なんか僕の文章も重いような感じがしますね。もっとこう、軽く力強く書けないものかなあ。「本当の自由即興をやるなら、 遊ぶ子供になりなさい」みたいな感じに。

COMMENTS
間先生はトリックスター過ぎましたね。
そこがいいところなんですけど。
彼の場合、即興に対するイメージがロマンに満ち溢れているので、本質的な部分での批評は少ないんです。
演奏者が自由に解放されているヴィジョンよりも、聴き手側で自由に音を構築することが面白く思えてしまう今日このごろですが、聴き手側の音楽というのは、演奏者の気合や覚悟で印象もだいぶ変貌します。フリージャズはそこがおもしろいのですが、なかなか一般的な支持は得られませんね。残念です。
フリージャズの敷居高そうな雰囲気を作ってしまったのには間先生も少しは加担しているように思えるのですが、私は間ファンなので、彼の批判はしません。フリーはフリーですので。
Posted by 森本 at 2005/04/29
>聴き手側で自由に音を構築することが面白く思えてしまう今日このごろ

実は、僕は(僕も?)音楽において重要なのは演奏者(音楽家)よりもむしろ聴衆だと思っていたりします。音楽はまず初めに耳ありきだろう、と。
というのは、演奏者(音楽家)が存在しなくとも音楽が存在することは十分考えられますが、聴衆――あるいは音を楽しむ耳――が無くては音楽は存在し得ないですからね。

あとフリージャズの敷居の高そうな雰囲気を作ってしまったのは、たしかに間先生も「少しは」加担しているように思えますが、フリージャズに関わる多くの方々がそのことに加担しているように思われます。評論家にしろ演奏家にしろ言うことや演ることが少々まじめすぎ、厳しすぎ、難しすぎ、そして重すぎることがある気がします。もちろん、それらとは真逆の人も多くいますが。
Posted by よしだ at 2005/05/01
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのTrackBack URL
http://blog.seesaa.jp/tb/3204551
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。